司法試験合格まで

受験~合格まで

六法全書
大学入学後も、「巨悪は眠らせない」を旗印に脚光を浴び続ける東京地検特捜部に憧れ続け、また、検察庁でも傍流の北大の先輩が特捜検事になっているのを見て親近感を持ちながら、「秋霜烈日」と呼称される検事バッチ(秋の冷たい霜や夏の激しい日差しのような気候の厳しさのことで、刑罰・権威などが極めてきびしく、また厳かであることをたとえている。)を付けることを夢目見て、受験勉強を続けていたのでした。

 

昭和61年、27歳のとき、司法試験に最終合格しました。
平均年令での合格でしたが、頑張った割には、なかなか合格できなかったというのが実感です。

 

当時の司法試験は、5月に短答試験、7月に論文試験、10月に口述試験と、半年掛けた3つの試験でふるい落とされながら、最終的に500人前後が合格するという流れでした(※)。短答試験は受かるのだけれど、論文試験に受からないということを繰り返しておりました。

※その後、司法試験合格者は、旧司法試験で、平成3年に600人を超え,平成17年に1500人弱まで増加しています。そして、法科大学院の卒業生が受験する新司法試験が実施された平成19年には,2000人を突破しました。政府の法曹人口増員計画によると,平成22年ころには3000人達成を目指すとされていました。

 

論文試験を終えて休養をとり、さてそろそろ勉強しようかと教科書を読み始めたところ、右眼が下の方から黒くぼやけて見えなくなってきたのです。

病院に行くと、「網膜剥離」と診断され、直ぐに手術しなければならないとのことでした。眼球の中のスクリーンにあたる網膜が、剥がれてきて視野が欠損し、放っておくと失明してしまうという病気です。顔を殴られるボクサーがよくなる病気なので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。私の場合は、このような外からの衝撃によるものではなく、強度の近眼による眼の歪みが原因でした。

 

通常あり得ないことなのですが、たまたまベッドの空きがあり、その日の内に大学病院に緊急入院することになりました。
当時は試験以外のことにはほとんど関心がなく、自信があったという訳ではありませんが、「もしかしたら、受験があるかもしれない」と話したところ、「そんなことを言っている場合ではない。時期的にも、試験には間に合わない。」と叱られ、全てを諦め、療養に徹する覚悟をしました。

 

数日後、眼球内でスクリーンを縫いつけるような手術をしてもらいました。手術後は、動くとまた剥がれてくるので、顔の両横に砂袋を置かれて3日間、ずっと上を向いて寝なければならない状況でした。
 

論文試験の合格は、病院のベッドのうえで聞きました。運良く、最後の口述試験にも日程的には間に合います。試験の1週間前に退院し、片目がぼやけて見えないまま、上京して、試験を受けることになりました。

 

合格した年は不思議な年でした。このような病気になったのですから、苛酷な勉強をし過ぎていたのではないかと聞かれるのですが、むしろ逆でした。前年まで試験直前といえば、やり残しが気になりジタバタしたり、わかりきった箇所を繰り返したり、遅くまでダラダラと起きていて試験に臨む、そんなやり方でした。

 

この年は、午前中はプールに行き、泳げないのでウォーキングをし、昼寝をしてから勉強を始め、夜はとっとと寝てしまうという生活をしていたのでした。

難関の論文試験を通ったのですから、勉強をしなければならないのですが、目を使うことができず、条文とか講義のテープを1日中繰り返し聞きました。疲れたら、喜多郎のシルクロードの音楽をかけ、また繰り返しテープを聞き続けました。

東京では、足かけ2週間に渡る口述試験。耳で覚えるまで不確実であった箇所がどんどん尋ねられる。
物事上手くいくときというのは、こんなものかも知れません。

 

そして、最終合格
今考えると、図らずも「人事を尽くして天命を待つ」状態になっていたのかもしれません。今更ながら、ジタバタせずに、「自然体」で取り組むことの重要性を感じざるを得ません。

 

司法試験に合格しても、そのまま直ぐに法曹になれるという訳ではありません。裁判官、検察官、弁護士について同一のカリキュラムで「司法修習」という見習い期間があり、当時の修習期間は2年間でした(現在は、従来の司法試験合格者は1年4か月、新司法試験合格者は1年です。)。

司法修習の始めと終わりは東京の湯島にある司法研修所(当時)でもっぱら机上の勉強をし、その間1年間は実務修習として、全国の地方裁判所の本庁所在地に配属され、刑事裁判・民事裁判・弁護・検察を各3か月ずつ研修します。私は、札幌地方裁判所に配属されました。

 

実務修習の最初は、検察修習でした。

実際に検察庁で指導を受けるもので、検事志望の私としては、待ってましたとばかりのことでした。しかし、当たり前と言えば当たり前のことなのですが、華やかな「東京地検特捜部」の活躍は、検察庁の活動の極一部であって、大部分は毎日毎日地味な業務の繰り返しであることを実感しました。

そればかりか、検察官一人一人が独人官庁であるとされていながら(法律の建前上、検察官は、単独で公訴を提起し公判を維持する権限を有するものとされています。)、検察庁は、組織としては、著しく中央集権的な官僚的システムであり、実際は、上司の決裁が絶対的なものでした。私の頭の中では、あらゆる圧力に屈することなく活動するように見えた東京地検特捜部のイメージと、実際が上手く重なり合わず,私の検事に対する憧れは,急速に冷めていきました

 

そして、法律の仕事を生業とするのであれば、自分の信念とか、感情を曲げることなく、仕事の面でも、私生活の面でも、自分の人生を自分でコントロールできること、自分の見える範囲で仕事ができることが、最低の条件ではないかと考えるようになりました。

 

それまでは、「正義」というものの観念的な雰囲気に憧れていたのでしょう。その後、東京地検特捜部について、「歪んだ正義」、「国策捜査」などと政治的であるとか、暴走していると批判される場面を見ると,主観的であれ,少なくとも,私自身の人生の選択には間違いがなかったように思うのです。

ちなみに大阪地検特捜部証拠改ざん事件で起訴されたM・S元副部長は、司法修習同期でした。

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